冬休みももう終わり。

新年ですね。今年は酉年ですね。

僕は喪中なので「あけおめ〜っ」が言えないのですが、暇つぶしにここを読んだ人にとって 2005 年が良い年でありますように。

さてさて。

喪中だからというわけではないですが、正月三が日はほぼ完全に部屋に引きこもって本を読んでたので、その感想を少し。

ティッピング・ポイント―いかにして「小さな変化」が「大きな変化」を生み出すか

ティッピング・ポイント―いかにして「小さな変化」が「大きな変化」を生み出すか

薦められて手に入れてようやく読みきれた本。一番感心させられたのが「150の法則」。人間が扱える情報量には上限があり、それが人間関係に適用されると 150 人が組織の上限であるということ。ティッピングポイントとはちょっと外れる話題じゃないのかなというのが気にもなりましたが。

さあ、次にいってみましょう。

どうしてこの本が書かれているのか。この本からいくつか抜き出してみる。

総務省の家計調査(県庁所在地)によれば、沖縄の一世帯あたり一年間の昆布の購入数量は一九九九年には一八位まで落ち、二〇〇一年は一六位。かつて「消費日本一」といわれた沖縄県民の昆布離れが、急速に進んでいる。

沖縄の、とくに四〇−五〇代は、全国平均の約二倍も肥満者がいる。

沖縄県の働き盛り男性の死亡率は全国で最悪−。厚生労働省が発表した二〇〇〇年の年齢階級別死亡率にはショッキングな数字が並ぶ。三五歳から四四歳の死亡率は最も高く、五〇歳以下は軒並み全国平均を上回る。

男性の平均寿命は、一九八〇年、八五年には全国一位にあったものの、九〇年は五位、九五年は四位となり、二〇〇〇年は二六位に急落した。

これでも沖縄が癒しの島であるといえるのか。思い込みはいけません。

さて。次にいってみよう。

築地で食べる 場内・場外・”裏”築地 (光文社新書)

築地で食べる 場内・場外・”裏”築地 (光文社新書)

僕は築地まで歩いていける所に住んでいるのですが、この本で共感するのは、築地に安いすし屋を求めてはいけないというくだり。確かに築地にはすし屋が多く、価格の安い店もありますが、単に安っぽいだけの店がほとんどなので、わざわざ築地までくる必要はないかと。というか、買い物ならともかく、スシ目当てに来ない方がいいですよ、みなさん。

唯一のフィクションはこれ。

グロテスク

グロテスク

エンディング(&最終章)がダメなのだが、そこまでは総体的には面白い小説かと。いわゆる東電OL殺人事件(そして一部オウム事件も顔を出します)を背景としているが、あまりその点に固執するとどうかと思う。ノンフィクショナルなことをフィクションに求めてはいけないので、つとめてフィクションとして読むように心がけてた。

読んでいて思ったのが、桐野夏生がこの小説を書くことでどこに進もうとしているかということ。物語の重層性を追求する過程としてはいい通過点かも知れないが、この世界にどっぷりつかっていくのはどうだろうかと思うが、どうかな。

「グロテスク」 by 桐野夏生

上述の桐野夏生作『グロテスク』について、作者本人が次のように話しているのを見つけた。

http://www.kirino-natsuo.com/

作者のコメント
<中略>
どうして、あのOL殺人事件を取り上げたのか。よく聞かれる質問ですが、私は事件当時、マスコミがなぜ熱狂して報じているのか、全く理解できませんでした。一流企業勤務、一流大学卒、夜の街娼。こういう「記号」に男たちが発情しているような印象を受け、好奇心だけで被害者の身許や行動を露わにしようとする様が非常に不愉快だったのです。もしかすると、世間の男たちを発情させる「記号」そのものが、彼女を苦しめ、夜の街に立たせるに至ったのではないか、という印象を強く持ちました。だから女の私が書いてみようか、と思った次第です。
とはいえ、私が書くことによって、要らぬ関心を煽ったり、関係者の方に迷惑がかかるのではないかということが不安でした。しかし、現代社会に生きる女の辛さや息苦しさ、性という不可思議なものに侵される思いを何とか書き切れば、違うものも見えてくるのではないか、と冒険することを決心したのです。

なるほど。

僕も、事件当時、マスコミがなぜ熱狂して報じているのかが、想像はできるけれど、今ひとつ理解できないほうでした(別に不愉快ではないけれど。発情すると言われている側だしな)。

ただ思うのは、この作者はこの作品を書くことでなにか違うものは見えてきたのでしょうかね。これについては、本作以降の作品を読めばわかるのでしょうかね。そこはちょっと気になります。