志賀直哉「小僧の神様」

酔った勢いで、東海林さだおの「ニッポン清貧旅行」というのをパラパラとながめている。

この本は、ショージさんが貧乏をキーワードにいろんなところに出かけていくのだが、途中で寿司を食うくだりで、志賀直哉の「小僧の神様」が出てくる。

小僧の神様―他十篇 (岩波文庫)

小僧の神様―他十篇 (岩波文庫)

この「小僧の神様」の使われ方がずいぶん気になった。なにかというと「ニッポン清貧旅行」だけはないのだが、寿司の正しい食い方を論じるときに「小僧の神様」がたびたび引用されるのだが、その引用の意図が昔から気になっていたことなのである。

小僧の神様」には、通の寿司の食い方として、ネタを下にして(=しゃりを上にして)口の中に放り込むのが正しい食い方であるとされている。この下りは、いろんなところで引用されている。

でも、僕はべつにこれは正しい食い方ではないでしょ?と前々から疑問に思っている。というか、寿司を食うとき、ネタを下にして食うのは衛生状態の整っていない時代のやり方だから、いまはどうでもいいんだよという主張を聞いたことがあり、その論が好ましいと思っているのである。

寿司にワサビをつけるのは、程度の悪い魚を寿司として食うために、その魚のにおいを弱めるというのが効果の一つとされている。確かに、ワサビにはそういう効果がある。そして、ネタを下にして食うのは、程度の悪い魚を口の中に入れたとき、すぐに気づくためであるともいわれている。確かに、冷蔵や冷凍が発達した現代ならともかく、そうでなかったころの生活の知恵としては、十分に有効な方法である。

でも、小僧の「神様」がネタを下にして食っているから、寿司の食い方はネタを下にして食え(またはそれが期待される作法なのである)と話を展開する人は少なくない。だいたい、寿司に限らず和食って作法がうるさかったりすることが多い。そして、そういう世界ではご飯とノリが裏返っているカリフォルニアロールとか、厳密には寿司ではないがゆえに食い方に困るキムパブなんて忌み嫌われる存在だったりする。

でも、カリフォルニアロールとかキムパブだと「小僧の神様」になれないんだろうなという気がする。カリフォルニアロール(またはキムパブ)を腹いっぱい食いたいっていう丁稚小僧って、この尖鋭化の進んだ現代日本の資本主義社会にはいそうにない。おまけに、ネタを下にして食べる正当な理由が冷凍・冷蔵技術、およびロジスティック網の発達で実は解消されているのが現代の寿司をとりまく環境である。だから、「小僧の神様」を超える新たな短編がでてきてもいいと思うけれどね。そして、引用されることで新たな寿司の食い方がひろまる短編がでてきてもいいのに、と思ったりするのである。